戦艦ポチョムキンは実話か|監督が創作と書いた場面と史実

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映画『戦艦ポチョムキン』は実話なのでしょうか?

結論から書くと、題材の反乱は1905年に実際に起きた事件です。
ウジのわいた肉と、殺された水兵の遺体が港に運ばれたことは、歴史書に書かれています。
艦隊がポチョムキンを撃たなかったことも、複数の資料が史実として伝えています。

一方で、有名な「オデッサの階段」の場面は脚本になかった、と監督のエイゼンシュテイン本人が書いています。
現地で階段を見て思いついた場面だ、というのです。

事件が起きたのは1905年6月、ロシア黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの上です。
ウジのわいた肉のボルシチを水兵たちが拒み、士官との衝突から反乱になりました。
6月27日という日付は英語版Wikipediaの艦の記事が、発端の経過は日本大百科全書の「ポチョムキン号の反乱」の項目が書いています。
オデッサは、その艦が入った黒海の港町です。
映画は、20年後の1925年にソ連で作られました。

この記事では、映画の主な場面を一つずつ、監督本人の文章や歴史研究者の記述などの資料に戻して仕分けます。
日付は現在の暦(新暦)で書き、当時のロシアの暦(旧暦)を添えます。
当時のロシアの暦は、現在の暦より13日遅れていました。

結論:事件は史実。階段と防水布の場面は、監督本人が手を入れたと書いています

映画の場面 判定 根拠
ウジのわいた肉のボルシチ 史実 ガヴリーロフ、ハフ、ワインバーグの各書ほか
水兵に防水布をかぶせて銃殺しようとする 本人は「監督の創作」と書いた。研究者の見解は割れている エイゼンシュテイン「十二使徒」/グッドウィン、ハフ、バスコム、ガヴリーロフの各書、ゼブロスキーの論文
殺された水兵の遺体を港に安置する 史実 ゼブロスキーの論文、ロシア語版Wikipedia。胸に置かれた書き付けも実在
オデッサの階段での虐殺 昼間に設定し、騒乱と切り離し、無辜の市民で満たす、という形は監督による変形(グッドウィン)。オデッサで軍が発砲し多数の死者が出たことは史実 エイゼンシュテイン「十二使徒」/バスコム、ワインバーグ、グッドウィンの各書
艦隊が撃たずにポチョムキンを通す 撃たなかったことは史実(複数の資料が一致)。ただし映画は事件の途中で終わる ロシア・ビヨンド、英語版Wikipedia(バスコムの本を出典に挙げる)/その後についてはエイゼンシュテイン「十二使徒」
撮影に使った艦 甲板・肉の場面・横からの画面は、別の艦と模型 エイゼンシュテイン「十二使徒」/モスコフスキー・コムソモーレツ紙

順番に見ていきます。

反乱は1905年に実際に起きた

戦艦ポチョムキンの反乱は、1905年6月27日(旧暦6月14日)に黒海で始まりました。
映画は、その20年後の1925年に、1905年の革命を記念して作られた作品です。

もとの企画は、ポチョムキンだけの映画ではありませんでした。
エイゼンシュテインには、1945年に書いた「十二使徒」という文章があります。
題は、撮影に使った艦の名前です。
その中で彼は、この映画は『1905年』という膨大な脚本の「半ページ」から生まれた、と振り返っています。
『1905年』は、1925年の夏に彼がニーナ・アガジャーノワと共同で書いた脚本です。

絞り込んだ理由は天気でした。
撮影が遅れて始まり、太陽を追ってレニングラードからオデッサとセヴァストポリへ移った結果、脚本の中から「南部で撮れる唯一の挿話」を選ぶことになった、と彼は書いています。

以下、「本人の文章」と書くときは、この「十二使徒」を指します。
英訳の著作集『Notes of a Film Director』に収められています。
撮影からおよそ20年後の回想である点には注意が要ります。

ウジのわいた肉は史実

反乱の発端になった腐った肉は、映画の脚色ではありません。
複数の歴史書が、肉にウジがわいていたと書いています。

海軍史家リチャード・ハフの『The Potemkin Mutiny』(1960年)の確認できた範囲には、ウジがいて、しかも動いていた、というくだりがあります。
艦の上級軍医スミルノフが、その肉を一級品だと宣告したことも記されています。

ロバート・ゼブロスキーの論文(2003年)は、肉は買った時点で鮮度が怪しく、暑い水雷艇の上で運ばれた7時間も災いした、と説明しています。
オデッサの1905年革命を研究したロバート・ワインバーグも、虫のわいた肉の配給に抗議した水兵が撃たれたことを発端に挙げています。

ソ連期の歴史家ガヴリーロフの本(1987年)には、もう一歩先の場面があります。
艦長が肉を塩水で洗わせたところ、引き上げた肉にウジがうようよしていて、昼食では誰もボルシチに手をつけなかった、という記述です。

エイゼンシュテイン本人は、ウジのわいた肉は「搾取される階級全体が置かれた非人間的な状況の象徴」になった、と書いています。

防水布の場面:本人は「監督の創作」と書いた

映画には、銃殺されようとする水兵たちに防水布がかぶせられる場面があります。
この場面について、エイゼンシュテイン本人は「監督の創作だった」と書いています。

水兵たちに防水布をかぶせる場面は、監督の創作だった。
セルゲイ・エイゼンシュテイン「十二使徒」(1945年執筆)/『Notes of a Film Director』所収(英訳から訳出)

英訳の原文は「The scene where the sailors are covered with a tarpaulin was the director's invention.」です。

本人の文章によれば、撮影の顧問でマチュシェンコ役も演じた元海軍士官が、この案に頭を抱えて抗議しました。
銃殺の前に防水布が甲板へ運ばれることはあったが、それは甲板を血で汚さないために、処刑される者をその上に立たせるためだった、という説明です。
「笑いものになる」と言われたエイゼンシュテインは、それでも映画のとおりに撮らせました。

彼は、この「技術的な不正確さ」は専門家しか気づかず、まったく見過ごされた、と書いています。
そしてゲーテの言葉として、「真実らしさのためなら真実に逆らってもよい」を引いています。

ただし、研究者の見解は割れている

ここで話は終わりません。
ガヴリーロフの本は、副長ギリャロフスキーが防水布を持ってくるよう命じた、と書いています。
バスコム、ハフ、ゼブロスキーの確認できた範囲にも、防水布は出てきます。
割れているのは、何のための防水布だったか、そして銃殺の脅しがあったかどうか、です。

防水布をめぐる説明 そう書いている資料
甲板に敷き、その上に立たせる ニール・バスコム『Red Mutiny』/エイゼンシュテインの顧問の元海軍士官/ガヴリーロフ(ロシア語版Wikipediaによる)
水兵にかぶせる ハフ(水兵は全員、そしてソ連の公式史も、かぶせられたと強く主張している、と序文に書く)/ジェームズ・グッドウィン『Eisenstein, Cinema, and History』(艦上の出来事の目撃証言に含まれている細部だ、と書く)
銃殺するという脅し自体がなかった 士官たちは一貫してそう主張している(ハフの序文による)

つまり「かぶせた」は監督の創作だ、という本人の言葉は、研究者に全面的に支持されているわけではありません。

ゼブロスキーの論文の注は、両方の見方を載せています。
まず、水兵を防水布で覆うのは、衛兵に誰を撃つのか見せないための慣習的な処刑の方法で、第二の目的は甲板に血がしみ込むのを防ぐことだった、と説明します。
続けて、ガヴリーロフは防水布をかぶせる一件は起きなかったと主張している、と紹介します。
ゼブロスキーによれば、ガヴリーロフはエイゼンシュテインの手記を調べたうえで、ポチョムキンでは誰も防水布をかぶせられなかった、という回想を引用しています。
ロシア語版Wikipediaも、ガヴリーロフはエイゼンシュテインの回想に依拠して、防水布は足元に敷くものだったと書いた、と伝えています。
そのうえでゼブロスキーは、映画のイメージの強さを指摘します。
防水布の下でおびえる水兵の姿があまりに強力で、歴史的事実として受け入れられ、語り継がれてきたようだ、というのです。

殺された水兵の遺体と、胸の書き付けは史実

反乱の中で撃たれて死んだ水兵ヴァクレンチュク(ワクレンチュクとも書かれます)の遺体は、実際にオデッサの港へ運ばれました。
遺体の胸には、市民に宛てた書き付けが置かれました。

ロシア語版Wikipediaは、遺体は港の埠頭に設けた天幕に安置され、衛兵がついた、と書いています。

ゼブロスキーの論文は、その書き出しをこう伝えています。

オデッサ市民よ、諸君の前に横たわるのは戦艦ポチョムキンの水兵ヴァクレンチュクの遺体である。彼はボルシチを食べるのを拒んだために副長に惨殺された(後略)
ロバート・ゼブロスキー「The Battleship Potemkin and Its Discontents, 1905」(2003年)が引く書き付け(英語から訳出)

ターナー・クラシック・ムービーズの解説によれば、映画ではこの水兵の名前は「ヴァクリンチュク」と綴られています。
史実の人物の綴りとは1字違います。

エイゼンシュテインは本人の文章で、この遺体への哀悼は、革命家の葬儀がデモになり新たな蜂起につながった数多くの事例の一つだった、と書いています。

オデッサの階段:本人は「脚本になかった」と書いた

オデッサの階段で、兵士たちが市民を撃つ場面があります。
有名なこの場面は、もとの脚本にも編集の草案にもなかった、と本人が書いています。

もとの脚本にも、モンタージュの草案にも、オデッサの階段での射撃の場面はなかった。階段を見たとき、その着想がひらめいたのだ。
セルゲイ・エイゼンシュテイン「十二使徒」(英訳から訳出)

吐き出したサクランボの種が階段を跳ねて落ちるのを見て思いついた、という逸話があります。
本人はこれを「彩りのある話だが、神話は神話だ」と否定しています。

では、この場面は何を描いたものなのでしょうか。
本人の文章は、オデッサの階段で起きた事件の再現だとは書いていません。
「バクーの虐殺と1月9日の虐殺を総合したもの」だと書いています。
もう一つの源として、1905年の雑誌で見た、煙に包まれた階段の上の騎兵の挿絵のおぼろげな記憶も挙げています。
1月9日の虐殺は、同じ1905年にペテルブルクで起きた「血の日曜日」のことです(1月9日は旧暦の日付です)。

実際のオデッサで起きたこと

では、オデッサでは何も起きなかったのかというと、そうではありません。
軍が群衆に発砲し、多くの人が死んでいます。
グッドウィンはこれを6月28日の夜のこととして書いています(旧暦では6月15日です)。
ただし、映画とは時刻も様子も違い、場所も階段に限りません。

映画 研究者の記述
時刻 昼間(グッドウィンによる) 当局が鎮圧に乗り出したのは真夜中近く(ワインバーグ)。コサックと兵士が大挙して動いたのは真夜中(バスコム)
場所 階段 封鎖された港湾地区(ワインバーグ)。市内のさまざまな場所で、階段もその一つ(グッドウィン)
様子 市民の騒乱から切り離され、無辜の市民で満たされた場面(グッドウィンによる) 暴動と略奪、港の大火災のさなかの鎮圧(ワインバーグ、グッドウィン)

ワインバーグは、翌朝までに数百人、ことによると千人が銃撃か火災で死んだ、と書いています。

ハフの本(1960年)の確認できた範囲には、下馬して整列したコサックが、士官の号令で、逃げる群衆を至近距離から撃つ描写があります。
この描写のくだりの確認できた範囲には、場所と時刻は出てきません。
バスコムは『Red Mutiny』の巻末の注で、リシュリュー階段に触れた文に続けて、映画と同じくハフの本もこの殺戮を誤って日中に置いている、と指摘しました。
同じ注で、人びとが港から逃れようとするなか、暴動の初期に階段でも暴力があったのは確かだ、とも書いています。

グッドウィンは、エイゼンシュテインがこの出来事を市民の騒乱から切り離し、昼間に設定し、無辜の市民で場面を満たすことで変形させた、というのがグッドウィンの見方です。
ターナー・クラシック・ムービーズの解説(ジェームズ・ステフェン)は、映画が入れなかった重要な出来事として、多くの命を奪った港の大火災を挙げています。

死者数は資料によって2桁違う

数字 出どころ
民間人の死者57人 オデッサ警察署長の報告(ロシア語版Wikipediaが引くマラホフほかの本による)
死傷者123人 ロシア政府の公式発表(同じくカルダシェフの本による。カルダシェフは過少だと評価)
数百人、ことによると千人 ワインバーグ『The Revolution of 1905 in Odessa』
約6000人 ハフ『The Potemkin Mutiny』(大半の見積もりとして挙げる。死者は数えられなかった、とも書く)

どの数字も、階段だけの死者数ではありません。
港の騒乱や、市内全体についての数字です。

「ポチョムキンの階段」という名前は映画のあとに付いた

1905年当時、この階段は「リシュリュー階段」などと呼ばれていました。
バスコムやゼブロスキーもこの名前で書いています。
英語版と日本語版のWikipediaによれば、「ポチョムキンの階段」と改名されたのは1955年で、反乱から50年を記念したものです。
現在の公式の名前は「プリモルスキー階段」です。

結末:艦隊は撃たなかった。映画が描かないその後

映画は、ポチョムキンが提督の艦隊の前を、撃たれることなく通り過ぎて終わります。
艦隊が撃たなかったことは、複数の資料が史実として伝えています。

ロシア・ビヨンド日本語版の記事は、提督たちが自分たちの水兵の忠誠心に確信を持てず、戦う踏ん切りがつかなかったため、ポチョムキンが去るにまかせた、と説明しています。
英語版Wikipediaの艦の記事も、バスコムの本を出典に、艦隊の司令官が発砲を命じなかったと書いています。

ただし映画はここで終わり、史実は続きます。
エイゼンシュテイン自身が、本人の文章にこう書いています。

その後ポチョムキンがどうなったかを私たちは知っている。艦はコンスタンツァで抑留され、ツァーリ政府に返還された。水兵の一部は逃れた。だがマチュシェンコはツァーリの絞首吏の手で処刑された。
セルゲイ・エイゼンシュテイン「十二使徒」(英訳から訳出)

ポチョムキンがルーマニアのコンスタンツァで投降したのは、1905年7月8日(旧暦6月25日)です。
反乱の指導者の一人マチュシェンコは、1907年にロシアへ戻って逮捕され、処刑されました。

それでも勝利の場面で映画を終えた理由を、彼はこう説明しています。
1905年の革命は血に沈められたが、歴史には十月革命の先触れとして、客観的には勝利の挿話として残ったからだ、というものです。

撮影に使われたのは本物のポチョムキンではない

撮影のとき、本物のポチョムキンはもう使えませんでした。
甲板の場面は、機雷の貯蔵庫になっていた別の古い軍艦「十二使徒」の上で撮られています。

本人の文章によれば、「十二使徒」の甲板の上に、海軍省に残っていた古い設計図をもとに、ポチョムキンの上部をベニヤ板で再建しました。
ウジのわいた肉の場面は、巡洋艦「コミンテルン」で撮っています。
戦艦を横から見た画面は、モスクワの公衆浴場のプールに浮かべたミニチュア模型です。

本物のポチョムキンは、1923年から解体が始まり、1925年11月21日に艦籍から除かれています(英語版Wikipediaが引くマクラフリンの本による)。

エイゼンシュテインは「十二使徒」を、英訳では「姉妹艦」、ロシア語の原文では「同型の仲間」と書いています。
これには2026年1月、ロシアのモスコフスキー・コムソモーレツ紙の記事で、海軍史の専門家ドミトリー・マズールが訂正を入れました。
「十二使徒」はポチョムキンより10歳近く古く、煙突は3本ではなく2本で、同型艦ではない、という指摘です。
同じ記事でマズールは、艦隊の場面には「戦前の」ロシアと外国のニュース映画が使われている、とも話しています。
1925年の映画なので、第一次世界大戦より前を指すとみられます。

配役にも、本人が否定している噂があります。
映画.comの解説には、エイゼンシュテイン自身が神父役で出演しているとあります。
本人は、神父を演じたのはセヴァストポリ郊外の果樹園の老庭師で、自分は、神父がカメラに背を向けて転げ落ちる場面の代役を務めただけだ、と書いています。

日本で一般公開されるまで40年以上かかった

この映画は、日本の一般の映画館では長く公開されませんでした。
一般の映画館で公開されたのは1967年10月です。

小川佐和子の論文「二重の神話化:日本における『戦艦ポチョムキン』上映史」(京都大学『人文學報』第116号・2021年)によれば、経過は次のとおりです。

年 出来事
1926年 横浜税関の検閲試写で輸入禁止になる
1959年2月21日 横浜の県立音楽堂で、初めて「自主上映」の形で上映される
1967年10月 アートシアター系の映画館で、輸入公開の形で正式に封切られる

ソ連での初上映は1925年12月、モスクワのボリショイ劇場での記念式典でした。
日付は、21日とする資料(レイダ『Kino』、小川論文)と、24日とする資料(ロシア語版Wikipedia。当時の『プラウダ』紙の告知を根拠にしています)があります。
一般の封切りは1926年1月18日で、確認した3つの資料(英語版とロシア語版のWikipedia、小川論文)が一致しています。

よくある質問

戦艦ポチョムキンは実話ですか?

題材の反乱は、1905年6月に黒海で実際に起きた事件です。
ウジのわいた肉と、殺された水兵の遺体が港に運ばれたことは歴史書に書かれています。
艦隊が撃たなかったことも、複数の資料が史実として伝えています。
一方、オデッサの階段の場面は脚本になく、監督が現地で階段を見て思いついたものだと、本人が書いています。

オデッサの階段の虐殺は本当にあったのですか?

軍が群衆に発砲して多くの死者が出たことは史実です。
ただし、映画のとおりではありません。
ワインバーグとバスコムの確認できた範囲では、鎮圧は真夜中ごろ、港湾地区を中心に、大火災のさなかに起きたとされています。
グッドウィンも、夜に市内のさまざまな場所で、暴動と略奪のさなかに起きたと書き、その場所の一つにリシュリュー階段を挙げています。
バスコムは、この殺戮を日中に置くのは誤りだ、と注に書いています。

ウジのわいた肉の話は本当ですか?

本当です。
ガヴリーロフの本は、塩水から引き上げた肉にウジがうようよしていた、と書いています。
ワインバーグの本は、虫のわいた肉への抗議を発端に挙げています。
ターナー・クラシック・ムービーズの解説も、実際にあった出来事の一つに数えています。
水兵たちがその肉のボルシチを拒んだことが、反乱の発端になりました。

映画に出てくる戦艦は本物ですか?

監督本人が書いている3つの場面は、いずれも本物のポチョムキンではありません。
甲板の場面は「十二使徒」という別の古い軍艦で、肉の場面は巡洋艦「コミンテルン」で撮られています。
戦艦を横から見た画面はミニチュア模型です。

反乱を起こした水兵たちはその後どうなりましたか?

ポチョムキンは1905年7月8日にルーマニアのコンスタンツァで投降し、艦はロシアに返還されました。
ロシア語版Wikipediaは、裁判にかけられたのは計173人で、死刑が執行されたのはマチュシェンコ一人だと書いています。
一方、ロシア・ビヨンドは「一部は処刑され」と書いており、資料の間で食い違いがあります。
どちらの記述にも、出典は示されていません。

この記事は、映画『戦艦ポチョムキン』(1925年・ソ連・監督セルゲイ・エイゼンシュテイン)の主な場面を、監督本人の文章と歴史研究者の記述に戻して確認したものです。
エイゼンシュテインの文章は英訳『Notes of a Film Director』から、ロシア語の資料は原文から訳しました。
邦訳の文言ではありません。
バスコム、ハフ、グッドウィン、ワインバーグ、レイダの各書とゼブロスキーの論文は、Googleブックスの書籍内検索で確認できた範囲を引いています。
前後の文脈までは読めていません。
作品の場面については、引用した資料の記述に出てくる範囲だけを書いています。

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