火垂るの墓は実話か|清太は死ぬが、野坂昭如は生きた

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『火垂るの墓』を観たあとに、多くの人が同じことを調べます。

これは実話なのか。

先に答えを置きます。

実話に基づいています。ただし清太は野坂昭如ではありません

清太は駅で死にます。原作者の野坂昭如は、死にませんでした。

生き延びて、この小説を書いた側に回りました。

以下、野坂本人が書き残した文章にあたって整理します。

実際にあったこと

まず、作品に取り込まれた実体験のほうから確認します。

できごと 内容
神戸大空襲 1945年6月5日。自宅を失い、家族が大火傷で亡くなった
焼け跡 食料を掘り出して西宮まで運んだ
美しい蛍の思い出
鉄棒 1941年12月8日、開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作った
妹の火葬 死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実

野坂は幼児期に生母と死別し、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子になりました。空襲の当時14歳。1歳の義妹とともに、西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せています。

そして戦中から戦後にかけて、2人の妹を相次いで亡くしています

作品と違う5点

ここからが本題です。

項目 作品 現実
両親 空襲で亡くなる 養母は一命を取り留めた
防空壕 家を出て2人で暮らす そういう事実は無い
妹の年齢 節子は4歳 恵子は1歳6ヶ月
妹思いの良き兄 疎ましく感じていた
結末 清太は死ぬ 野坂は生きた

① 両親は死んでいない

作品では、空襲で母を失うところから話が始まります。

現実は違います。Wikipediaは、この設定をはっきり「脚色」と書いています

「空襲で父母をなくした」は脚色であり、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は重傷を負いながらも一命を取り留めており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だったWikipedia『火垂るの墓』作品背景

養父は行方不明。しかし養母は生きていて、養祖母も健在でした。

② 家を出て防空壕で暮らしてはいない

ここは混同されやすいので、分けて書きます。

防空壕そのものは実在します。野坂も避難していました。

作中で兄妹が暮らす貯水池は、現在の夙川公園北東部付近にあるニテコ池がモデルです。そしてWikipediaの注記にこうあります。

防空壕は、ニテコ池のほとりに実在した壕。野坂自身もたびたび避難したというWikipedia『火垂るの墓』注記

野坂は親類宅に身を寄せたり、その近くのニテコ池南側の谷間に10ヶ所ほどあった防空壕で過ごしたりしています。

それでも、「家を出て防空壕で生活した」という事実はありません。

食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実は無いWikipedia『火垂るの墓』作品背景

「防空壕にいたことがある」と「家を出て妹と2人で暮らした」は、別のことです。物語の中心にある独立生活のほうが、創作にあたります。

③ 妹は4歳ではなく1歳6ヶ月

作中の節子は4歳です。

現実の妹・恵子は1歳6ヶ月でした。亡くなったのは疎開先の福井県です。

この差は小さくありません。4歳なら会話ができ、走れます。1歳6ヶ月は、まだほとんど何もできない年齢です。

そして当時の野坂は、その妹に付きっきりだったわけでもありませんでした。

西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたというWikipedia『火垂るの墓』作品背景

④ 兄は優しくなかった

いちばん重い違いです。

野坂は上の妹には愛情を注いでいましたが、下の妹については「どちらかといえば疎ましく感じていた」と自ら認めています

泣きやませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったというWikipedia『火垂るの墓』作品背景

そして、その先です。

西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、痩せ衰えて骨と皮だけになった妹は、誰にも看取られることなく餓死しているWikipedia『火垂るの墓』作品背景(出典=野坂昭如「五十歩の距離」)

作中の清太は、最後まで妹のために食べ物を探し続けます。現実の兄は、そうしませんでした。

⑤ 清太は死ぬが、野坂は生きた

作中の清太は、1945年9月21日に三ノ宮駅の構内で、14歳で衰弱死します。

野坂昭如は生き延びました。作家になり、1967年に『火垂るの墓』を発表して直木賞を受けています。

主人公が死ぬ物語を、生き残った本人が書いた。これがこの作品の構造です。

変えなかったものが、ひとつあります

これだけ変えておきながら、そのまま残した事実があります。

妹の命日、8月22日です。

作中の節子は、終戦から7日後の8月22日に亡くなります。現実の恵子が福井で亡くなったのも、8月22日でした。

年齢を変え、場所を変え、兄の人物像を変え、両親の生死まで変えたうえで、日付だけは動かしていません。

なぜ「優しい兄」を主人公にしたのか

理由は、野坂自身が書き残しています。

かつては自分もそうであった「妹思いの良き兄」を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いたWikipedia『火垂るの墓』作品背景

贖罪と鎮魂。清太は、野坂が恵子に対してはなれなかった兄の姿ということになります。

野坂本人の言葉です。

一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号/『アドリブ自叙伝』筑摩書房・1980年 所収)

最後の一文がすべてです。ぼくはあんなにやさしくはなかった。

なお「節子」という名は、野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生のときに一目惚れした初恋の同級生の名前でもあります。

発表当時から、選考委員は自伝だと見ていました

『火垂るの墓』は1967年に『オール讀物』10月号へ掲載され、『アメリカひじき』とあわせて第58回直木賞を受けています。選考委員の評価は総じて高く、反対派はいませんでした。

そのなかで、海音寺潮五郎がこう書いています。

後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう海音寺潮五郎「第58回直木賞選評」(オール讀物 1968年4月号)

発表の時点で、選考委員は自伝性を見抜いていたということです。

大佛次郎も「作りごとでない力が、底に横たわって手強い」と評しています。

刊行時に、結末が書き換えられています

作品の成り立ちについて、もう一点あります。

単行本にする際、末尾の一段落が削除されました。

削られたのは、この文章です。

その夜、布引の谷あいの螢、無数にとび立ち、一筋の流れとなり、三宮駅浜側の夏草のしげみに流れおち、くさむら一面無数の螢火にかざられたという、うち捨てられた節子の骨を、守るようにあやすようにあやすように。野坂昭如「火垂るの墓」初出の結部

蛍が妹の骨を守る、という締めくくりです。妹の鎮魂を、より強く出した表現でした。

代わりに加えられたのが、清太の遺体が他の浮浪児たちとともに荼毘に付された日時「昭和20年9月22日午後」という記述です。

この改稿には、こういう解釈があります。

野坂個人の妹に対する鎮魂と悔悟に根差した兄妹固有の物語であったものを、主人公を多くの戦災孤児たちの一人として描くことで、戦災孤児たちの鎮魂の物語として拡大したWikipedia『火垂るの墓』作品発表までの経緯

私的な贖罪の話から、戦災孤児全体の話へ。結末の一段落を落としたことで、作品の射程が変わったという読み方です。

舞台になった場所は実在します

物語の舞台は架空ではありません。

場所
西宮回生病院/香櫨園浜/夙川駅/夙川公園/ニテコ池(作中の貯水池) 西宮市
御影公会堂/御影小学校/石屋川 神戸市
モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともあるWikipedia『火垂るの墓』

よくある質問

結局、どこまでが実話ですか?

神戸大空襲で家を失ったこと、焼け跡から食料を運んだこと、蛍の思い出、妹を自ら火葬したことは事実です。一方で両親の死・防空壕での独立生活・妹の年齢・優しい兄という人物像は、いずれも作品の側です。

清太と節子にモデルはいますか?

清太は野坂昭如自身をもとにしていますが、下の妹に対する態度は、現実と逆に描かれています。節子は下の妹・恵子がもとですが、年齢は4歳と1歳6ヶ月で違います。上の妹との思い出も混ぜられています。

ニテコ池の防空壕は実在したのですか?

実在しました。野坂自身もたびたび避難したとされています。ただし、そこで兄妹2人で暮らしたという事実はありません。

妹は本当に餓死したのですか?

そうです。福井県で、痩せ衰えて誰にも看取られることなく亡くなっています。野坂は、自分がろくに食べ物を与えなかったことを書き残しています。

ドロップ缶のエピソードは実話ですか?

本記事で当たった出典では確認できませんでした。ドロップ缶は作品の冒頭と結末を結ぶ重要な小道具として描かれていますが、それが実体験だったとする記述には行き当たっていません。断定は避けます。

まとめ

『火垂るの墓』は実話に基づきますが、核心はほとんど作り変えられています。

両親は生きていた。防空壕で暮らしてはいない。妹は1歳6ヶ月だった。そして兄は、優しくなかった。

変えなかったのは、妹が死んだ日付だけです。

作品の清太は、上の妹に対しては実際にそうであり、下の妹に対してはそうなれなかった兄の姿です。現実の兄は生き延びて、22年後にその物語を書きました。

本記事の事実関係は、日本語版Wikipedia『火垂るの墓』の「作品背景」節、および同節が出典として挙げる野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号/『アドリブ自叙伝』所収)、「五十歩の距離」(『野坂昭如エッセイ集1 日本土人の思想』中央公論社・1969年)にあたって確認しました。
朝日新聞2016年12月2日の記事は有料のため本文を確認できておらず、内容を引用していません。

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