二百三高地は実話か|史実と映画オリジナルの人物

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映画『二百三高地』は実話なのでしょうか?

結論から書くと、描かれている日露戦争の旅順攻囲戦と203高地の戦いは、実際にあった出来事です。
ただし、物語の中心にいる小学校教師の小賀武志と、その部下4人は、映画のために作られた人物です。

映画は1980年8月2日に公開された東映の作品で、監督は舛田利雄、脚本は笠原和夫です。
映連のデータベースのキャスト欄は、仲代達矢、あおい輝彦、丹波哲郎、三船敏郎らの名前を挙げています。
日本語版Wikipediaによると、児玉源太郎を演じたのは丹波哲郎です。

この記事では、国立公文書館アジア歴史資料センターの解説で戦いの経過をたどり、映画の人物と演出のどこが史実と離れているのかを整理します。

結論:戦いは実際の出来事、主人公は映画のための人物

項目 判定 根拠
旅順攻囲戦と203高地の戦い 実際の出来事(1904〜1905年) アジア歴史資料センター
小賀武志と部下4人 映画のオリジナルの人物 日本語版Wikipedia
203高地への目標変更 1904年11月27日付の第三軍の命令 アジア歴史資料センター、日本語版Wikipedia
兵の小銃と軍服 当時のものと違う 日本語版Wikipedia

戦いの経過は、記録に残っています

国立公文書館アジア歴史資料センターの「日露戦争特別展2」は、第3次旅順総攻撃を1904年11月26日から1905年1月1日までとしています。
8月と10月の総攻撃が失敗したあと、第三軍が3度目の総攻撃に踏み切った戦いです。

同じ解説によると、経過は次のとおりです。

  • 11月26日 第3次旅順総攻撃が始まる。当初の目標は旅順の東北部にある望台一帯の高地だった
  • 11月27日 第三軍の作戦方針が203高地の奪取に変更され、第1師団が攻撃を開始
  • 11月30日 第1師団に替わり、第7師団が203高地を攻撃
  • 12月5日 日本軍が203高地の奪取に成功
  • 1905年1月1日 旅順市街のロシア軍司令部に白旗があがり、開城を申し出る
  • 1月2日 水師営で開城規約の調印。1月5日 水師営で乃木大将とステッセリ中将の会見

アジア歴史資料センターの解説には、203高地が目標になった理由も書かれています。
旅順港を一望できるこの高地に観測点を置くと、港の中のロシア海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)への攻撃を優位に進められるからです。
日本語版Wikipediaによると、203高地は観測点としては有意義でしたが、要塞そのものの攻略にはあまり重要ではありませんでした。

主人公の小賀武志と部下4人は、映画のための人物です

日本語版Wikipediaは、この作品の登場人物のうち5人を「オリジナルキャラクター」として挙げています。

  • 小賀武志(あおい輝彦) 金沢の小学校の教師。ロシア語に通じ、少尉として召集される
  • 木下九市 豆腐屋の息子
  • 梅谷喜久松 太鼓持ち出身
  • 牛若寅太郎 ヤクザ
  • 米川乙吉

乃木希典も児玉源太郎も実在の人物ですが、物語を引っぱる小隊の5人は実在の人物ではありません。
日本語版Wikipediaは、この作品が第三軍の司令官・乃木希典を中心に戦争の推移を描く一方で、予備役で召集された民間人を通して、前線の一兵卒の惨状や庶民の姿を描いていると説明しています。
小賀たちは、その「民間人の側」を担う人物です。

「児玉が目標を変えた」という話は、小説の記述です

203高地をめぐっては、児玉源太郎が攻撃目標を203高地に変えさせた、という筋書きが知られています。

日本語版Wikipediaは、これを司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の記述だとしたうえで、直接の資料は存在せず、実際に目標を変更させたのは乃木だと書いています。

アジア歴史資料センターの解説にも、11月27日に第三軍の作戦方針が203高地の奪取に変更された、と書かれています。
同じ解説は、海軍や大本営と陸軍の間で目標が絞られていなかったところ、当初の計画がすぐに行きづまったことで、ようやく203高地の占領を第一の目標とすることで一致したと言われている、と書いています。

脚本は徹底した調査の上に書かれ、考証ミスも残りました

日本語版Wikipediaによると、脚本の笠原和夫は、当日の天気まで記した巻物のように長い年表を作り、当時の時系列や状況を徹底して調べたうえで脚本を書きました。

一方で、同じ項目は考証の誤りも挙げています。

  • 劇中で日本兵が使う小銃は三八式歩兵銃だが、日露戦争当時に使われたのは三十年式歩兵銃で、明らかな考証ミスだとしている
  • 日本兵の暗い色の軍服は、史実では旅順攻略戦までにカーキ色へ入れ替わっていたが、予算の都合で旧来の色のまま撮影された

撮影そのものも、史実とは季節が逆でした。
戦いは冬ですが、撮影は真夏に行われ、旅順要塞の屋外セットは伊豆大島に作られました。
俳優たちは炎天下で冬服を着込んで演じています。

製作の事情と、公開当時の批判

映連のデータベースによると、この映画は1980年8月2日公開、185分です。
日本語版Wikipediaは、製作期間3年、当時としては破格の製作費15億円と書いています。

日本語版Wikipediaによると、脚本の笠原和夫は、岡田茂・東映社長が企画部長に「明治天皇(の映画)をやろう」と指示して企画が始まった、と話しています。
笠原は、乃木を中心にした旅順戦に加えて、海外に行った3人の動きを含む脚本を書きましたが、長すぎると言われ、旅順戦に絞る形になりました。

日本語版Wikipediaは、公開当時に「戦争賛美映画」「軍国主義賛美映画」「右翼映画である」と批判されたと書いています。
主題歌を歌ったさだまさしは、依頼を受けたときに音楽監督の山本直純へ「二百三高地の何を描くんですか。要するに『勝った、万歳』を描くんですか」と尋ね、勝ち負け以外の人間の小さな営みを浮き彫りにしたい映画だという答えを受けて引き受けた、という逸話が紹介されています。

観て思ったこと

ここからは資料ではなく、私が1980年の映画を観た印象です。

『二百三高地』を観ていて強く印象に残るのは、戦争の勝敗そのものよりも、その過程で積み重なっていく犠牲の大きさでした。
実在の戦いを題材にしていることもあり、娯楽映画というより歴史上の出来事を追体験しているような感覚があります。
観終わったあとに気になったのは名場面の真偽ではなく、実際の旅順攻囲戦で兵士たちがどのような状況に置かれていたのかという点でした。

乃木希典や児玉源太郎など歴史上の実在の人物が出てくることで、史実を土台にした作品という印象が強くありました。
戦場での消耗戦の描写には、英雄譚というより歴史の重さを感じました。
兵士一人ひとりの視点だけでなく、指揮官側の判断や葛藤も描かれており、実際の戦争を再現しようとしているように見えました。
銃後の家族や恋人たちの場面は、史実の記録というより当時を生きた人々の生活を想像させる要素として印象に残りました。

よくある質問

二百三高地は実話ですか?

描かれている旅順攻囲戦と203高地の戦いは、1904年から1905年にかけて実際にあった出来事です。
ただし物語の中心にいる小賀武志と部下4人は、映画のために作られた人物です。

二百三高地は何の戦争ですか?

日露戦争です。
アジア歴史資料センターによると、第3次旅順総攻撃は1904年11月26日から1905年1月1日までで、203高地の占領は12月5日です。

児玉源太郎が攻撃目標を変えたのは本当ですか?

日本語版Wikipediaは、その筋書きを司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の記述だとしたうえで、直接の資料は存在せず、実際に目標を変更させたのは乃木だと書いています。
アジア歴史資料センターの解説にも、11月27日に第三軍の作戦方針が203高地の奪取に変更された、と書かれています。

二百三高地の戦いの死者数は?

映連のデータベースに載る『二百三高地』の作品紹介は、戦死者3,150名、負傷者6,850名の犠牲を出して二百三高地が陥落し、その1か月後に旅順も陥落した、と書いています。
この数字は映画の作品紹介にあるもので、二百三高地への総攻撃に結び付けて書かれています。

映画の中で史実と違うところはありますか?

日本語版Wikipediaは、兵が使う小銃が当時の三十年式ではなく三八式になっていること、軍服の色が当時入れ替わっていたカーキ色ではなく旧来の暗い色のままであることを挙げています。

この記事は、映画『二百三高地』(1980年・東映・監督 舛田利雄)について、国立公文書館アジア歴史資料センターの「日露戦争特別展2」、日本映画製作者連盟のデータベース、日本語版Wikipedia(「二百三高地」「203高地」)をもとに確認したものです。
上映時間は映連のデータベースが185分、日本語版Wikipediaが181分で、食い違っています。
作品について私の記憶で書いたのは「観て思ったこと」の節だけで、それ以外の作品の説明は上に挙げた資料の記述によります。
私の記憶の濃さは、筋は追えるが細部は曖昧、という程度です。

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