
『八甲田山』は実話です。1902年に本当に起きた遭難事件を題材にしています。
ただし、主要人物は全員、名前が変えられています。
神田大尉も、山田少佐も、徳島大尉も、実在しません。モデルになった人はいますが、別の名前です。
そして名前だけでなく、最期の描かれ方も変わっています。
出典にあたって整理します。
事件そのものは、記録が残っています
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出発 | 1902年(明治35年)1月23日 |
| 部隊 | 日本陸軍第8師団 青森歩兵第5連隊 |
| 行程 | 青森市街から八甲田山の田代新湯へ |
| 参加 | 210名 |
| 死者 | 199名(うち6名は救出後に死亡) |
出典は、近代の登山史における世界最大の山岳遭難事故と位置づけています。
目的は「訓練」ではなく、物資輸送の実験でした
映画を観ると寒冷地訓練の話に見えますが、記録が挙げる目的はもう少し具体的です。
冬にロシア軍が陸奥湾へ侵入し、青森市街の東西で艦砲射撃を受けて列車が不通になった場合を想定していました。そのとき八戸方面と青森・弘前を結ぶ物資の運搬を、人力ソリで代替できるか——それを調べるための行軍です。
だから210名という大人数で、荷物約1.2トンをソリ14台で曳く計画でした。
大部隊だったのは、目的がそうだったからです。ソリ1台は約80キロあり、4人以上で曳く必要がありました。
登場人物は、全員が仮名です
ここが、この作品でいちばん誤解されている点です。
| 作中の名前 | 演じた俳優 | 実在の人物 |
|---|---|---|
| 神田大尉 | 北大路欣也 | 神成文吉(かんなり ぶんきち)陸軍歩兵大尉 |
| 山田少佐 | 三國連太郎 | 山口鋠(やまぐち しん)陸軍歩兵少佐 |
| 徳島大尉 | 高倉健 | 福島泰蔵陸軍歩兵大尉 |
| 江藤伍長 | 新克利 | 後藤房之助陸軍歩兵伍長 |
新田次郎の小説も映画も、実在のモデルから名前を変えています。
出典は小説について、こう書いています。
「天は我々を見放した」は、実際に言われています
映画で北大路欣也が叫び、当時の流行語にもなった台詞。これは創作ではありません。
ただし、記録に残っている言葉は少し違います。
そして、意味が逆です
映画では悲壮な名場面として描かれます。記録での扱いは、正反対です。
この発言で兵士の士気が下がり、斃れる者が続出したと出典は記しています。
その言葉を書き残した小原忠三郎伍長本人が、後年こう述べています。
名場面として記憶されている台詞が、当事者にとっては言ってほしくない言葉でした。
神田大尉の最期は、まったく違います
映画と小説では、神田大尉は雪原で孤立し、舌を噛み切ります。
史実の神成大尉は、そうではありません。
| 時刻 | 記録 |
|---|---|
| 1月26日夜 | 同行していた後藤伍長に、自分を置いて行くよう命令した(後藤の生還後の証言) |
| 1月27日 10時頃 | 後藤伍長が大滝平付近で発見され、その口述から神成の所在が判明 |
| 11時頃 | 後藤からわずか100メートルの地点で発見。全身が凍りつき、帽子も手袋も身に付けず、雪に首まで埋まっていた |
救命のため気付け薬を打とうとしましたが、腕が凍りつき、注射針が通らず折れるほどでした。口を開けて針を刺したところ一言何かを言ったとも伝えられますが、そのまま昏睡し、二度と目覚めませんでした。
救援隊はその場に残して帰還し、遺体の収容は2日後の1月29日です。
自決ではなく、凍死でした。
山田少佐の死は、いまも確定していません
映画では責任を負って自ら命を絶つ人物として描かれます。ここは、出典がはっきり「わからない」と書いている箇所です。
山口鋠少佐は救助されて青森衛戍病院に入院し、2月2日午後8時半に死亡しました。入院からわずか1日です。
| 説 | 内容 |
|---|---|
| 心臓が弱かった | 元々そうだったとの証言がある |
| 拳銃自殺説 | 小笠原孤酒を取材した新田次郎が採っている。根拠は、遺族が軍から愛用の銃を渡されたこと |
| 殺害説 | 松木明知(弘前大学医学部麻酔科)がクロロホルム大量投与による殺害を主張。青森市幸畑の遭難資料館も紹介している |
| 反論 | 郷土史家・川口泰英は「救出後わずか1日で暗殺を命じるのは時間的に不可能」として否定的 |
拳銃自殺については、入院時の記録が残っています。「膝下、肘下は重度の凍傷で手指は水膨れて膨張す」——この状態で引き金を引くのは医学的に困難とされています。
出典の結論は、「歴史の霧の中にかすんでいる状態」です。
映画が描く最期は、確定していない説のひとつを採ったものです。
両隊が協力していたという話は、創作です
作品では、青森隊と弘前隊が共通の目的のもとに協調し、指揮官どうしが交流します。
同じ日に同じ山にいたのは、偶然です。
弘前歩兵第31連隊は福島泰蔵大尉の率いる37名と新聞記者1名。弘前から十和田湖、三本木、田代、青森を経て弘前へ戻る総延長224キロを、1月20日から11泊12日で歩く計画でした。こちらは落伍者を出さずに完遂しています。
小説が広めてしまった誤解があります
出典が名指しで指摘している例がひとつあります。
『八甲田山死の彷徨』の終章に、遺族への恩給や祭粢料に続けて「遭難者は戦死者と同じように扱い、靖国神社に合祀するということを聞いて…」という記述があります。
このくだりから「遭難者は靖国神社に合祀された」という説が長く流布しました。
これは誤報だったことが、後に明らかにされています。作品の記述が、事実として広まってしまった実例です。
弘前隊は、遭難者を目撃していました
もうひとつ、長く表に出なかった話があります。
2002年に見つかった資料によれば、弘前隊が田茂木野に着いた際、第5連隊の遭難者を目撃した旨を福島大尉自身が報告していました。
しかし、その事実は伏せられます。
生還した後藤惣助一等卒も、救援隊とおぼしき一団と互いに気づきながら無視して通過されたと証言しており、後日それが弘前隊だったと知ったという資料が見つかっています。
ただし出典は、自らも遭難しかねない状況で救助は事実上不可能だったとも併記しています。
近年、通説を問い直す書籍が出ています
この事件を検索すると、必ず出てくる本があります。
| 書名 | 『八甲田山 消された真実』 |
| 著者 | 伊藤薫(元自衛官・青森県出身) |
| 版元 | 山と溪谷社/2018年1月17日 |
版元の紹介によれば、神成大尉の準備不足と指導力の欠如、山口少佐の独断専行、福島大尉をめぐる問題を挙げ、生存者・小原元伍長の証言や当時の陸軍の事故報告書と小説とのズレを指摘した内容です。遭難事故を矮小化しようとした軍の隠蔽体質を扱うとされています。
ただし本記事は、この本の主張をそのまま採ってはいません。
紹介文は山口少佐について「拳銃自殺の真相」を掲げていますが、先に見たとおり、Wikipediaが引く医学的な検証は拳銃自殺を困難としており、死因は確定していないという立場です。同じ事件について、書籍と百科事典で結論が分かれています。
本記事は、出典どうしが食い違う箇所は食い違ったまま示す方針を採りました。
よくある質問
『八甲田山』は実話ですか?
事件は実話です。1902年1月、青森歩兵第5連隊210名が八甲田山で遭難し、199名が死亡しました。ただし登場人物は全員が仮名で、指揮官どうしの交流や神田大尉の自決など、劇中の主要な場面には創作が含まれます。
神田大尉は実在しますか?
実在の神成文吉大尉がモデルです。1869年生まれ、事件当時32歳。作中の「舌を噛み切る」という最期は創作で、記録では全身が凍りついた状態で発見され、そのまま亡くなっています。
山田少佐は自殺したのですか?
確定していません。拳銃自殺説は新田次郎が採っていますが、入院時の記録では手指が重度の凍傷で、引き金を引くのは医学的に困難とされています。殺害説とその反論もあり、出典は死因を「歴史の霧の中」と表現しています。
生存者は何人ですか?
救助されたのは17名で、うち6名が病院で亡くなり、最終的な生存者は11名です。多くが重い凍傷を負い、後藤房之助伍長は両手両足を切断しました。
後藤伍長の銅像はどこにありますか?
八甲田山中の馬立場に立つ高さ約7メートルの像です。発見時の後藤の姿をモデルにしています。この場所は発見地ではありません(実際の発見地には別に標識が立てられています)。後藤本人は1906年7月23日の除幕式に出席しています。
まとめ
事件は実話で、人物は仮名。そして最期は書き換えられています。
神田大尉は舌を噛み切っておらず、山田少佐の死因は確定しておらず、両隊の交流は創作でした。「天は我々を見放した」だけは実際に言われていましたが、名場面ではなく、士気を崩した言葉として記録されています。
199人が亡くなったことだけが、動かない事実です。
実在の軍人が映画でどう描かれたかという点では、『タイタニック』で映画会社が遺族に謝罪した経緯を整理した記事もあります。
本記事の事実関係は、日本語版Wikipediaの『八甲田雪中行軍遭難事件』『八甲田山死の彷徨』『八甲田山 (映画)』『神成文吉』『後藤房之助』にあたって確認しました。
実在の遭難事故を扱うため、犠牲者個人の遺体の状態に関する描写は、死因の説明に必要な範囲を超えて記載していません。山口鋠少佐の死因については出典が「確定していない」としているため、本記事でも断定していません。
なお銅像の建立年は出典間で記述が分かれているため、後藤本人が出席した除幕式の日付のみを記載しています。

