遠山の金さんは実在するか|刺青の記録に桜は出てきません

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遠山の金さんには、はっきりしたモデルがいます。遠山景元という実在の町奉行です。

ただし刺青については、「確証する文献はない」というのが出典の書き方です。

そして最も具体的に図柄を書き残した証言を読むと、そこにあるのは桜ではありません。

出典にあたって整理します。

遠山景元という人

先に人物の輪郭だけ確認します。

名前 遠山景元(とおやま かげもと)。通称は金四郎、正式な名乗りは遠山左衛門尉景元
生没 寛政5年(1793年)生まれ。安政2年(1855年)に63歳で死去
家 知行500石の旗本。明知遠山氏の分家の6代目
父 長崎奉行を務めた遠山景晋。永井家から遠山家へ養子に入った人物
墓所 東京都豊島区巣鴨の本妙寺

「金四郎」は景元だけの名前ではありません。出典はこう書いています。

文化6年(1809年)、父の通称であった金四郎に改める。日本語版Wikipedia『遠山景元』

南北両方の町奉行を務めた、異例の人です

まず経歴で目を引くのがここです。

時期 役職
天保11年(1840年)3月2日 北町奉行に就任
天保14年(1843年)2月24日 罷免され大目付へ。栄転だが実質は閑職
弘化2年(1845年)3月 南町奉行として返り咲き
嘉永5年(1852年) 隠居。剃髪して帰雲と号した

出典は「同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例」と書き、松野助義に続く2例目だと注記しています。

一度罷免されて閑職に回され、そこから別の奉行職で戻ってきた人です。

刺青は「確証する文献がない」と書かれています

本題に入ります。

日本語版Wikipediaの『遠山景元』には「『遠山の金さん』を巡る諸説」という節があり、そこに一文があります。

景元が彫り物をしていたことを確証する文献はない日本語版Wikipedia『遠山景元』

この一文が、以下すべての前提になります。

伝わっている説を並べると、これだけあります

同じ節が挙げている説を整理します。

説 典拠として挙げられているもの
腕に桜花の文身 中根香亭『大日本人名辞書』の「遠山左衛門尉」
左腕に花模様 木村芥舟『黄粱一夢』明治16年(1883年)12月
全身くまなく 『浮世の有様』弘化期刊
右腕のみ —
桜の花びら1枚だけ —
そもそも彫り物自体を疑問視 —
「武家彫り」でなく「博徒彫り」 —

桜と呼べるものは、この中の2つだけです。しかも部位が腕で、範囲もばらばらです。

最も具体的な証言は、桜ではありません

ここからが今回の核心です。

刺青について、図柄を具体的に書き残した人物がいます。旧幕臣で漢学者の中根香亭(1839〜1913)です。

「帰雲子伝」明治26年8月

中根香亭が書いたのは、桜ではなく女の生首でした。

原文はこうです。

其圖斷頭美人、亂髪啣箋、箋端垂及肘中根香亭「帰雲子伝」『史海』26巻(1893年8月)86頁

読み下すと、その図は断頭美人、つまり女の生首で、乱れ髪に箋(手紙または短冊)をくわえ、箋の端は肘まで垂れていた、という意味になります。

桜吹雪ではなく、口に手紙をくわえた女の生首。二の腕から肩にかけての彫り物だったと伝えられます。

ここで、出典どうしが食い違っています

そして注意が要ります。

日本語版Wikipediaの『遠山景元』は、この中根香亭を「桜吹雪」の典拠として引いています。

一方で国立国会図書館のレファレンス事例は、同じ中根香亭を生首の典拠として引き、巻号と頁まで示しています。

同じ人物の記述が、出典によって桜になったり生首になったりしています。

巻号と頁が付いているのは生首のほうです。この記事では、そちらを採ります。

なお日本語版Wikipediaは、近世文学を専門とする棚橋正博の指摘として、明治26年11月初演の歌舞伎『遠山桜天保日記』の脚本にも「生首が文をくはへたる」彫り物が出てくると書いています。中根香亭の「帰雲子伝」は同じ年の8月です。

国立国会図書館の回答は「未解決」です

この問いは、公的機関に持ち込まれています。

国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、まさにこの質問の事例が登録されています。中根香亭の記述を挙げたうえで、根拠となる資料はあるのかという問い合わせです。

回答は「未解決」でした。

刺青の図柄を描いた絵画も、この記述の根拠となる原資料も、見つからなかったと記録されています。

日本最大の図書館が探して出てこない、というのがこの話の現在地です。

江戸東京博物館も「確証なし」と答えています

同じ問いが、江戸東京博物館の図書室にも寄せられています。質問は「遠山金四郎は本当に桜吹雪の刺青をしていたのか」。

桜吹雪の刺青の有無について確証のある文献は当館蔵書には見つけられませんでした江戸東京博物館 図書室 レファレンス

そこで引かれている研究書

回答は、館蔵の資料を4冊引いています。

資料 記述
『NHK歴史発見 8』 生首説を紹介しつつ、「遠山本人が彫物をしていたとは考えられない」と疑問を呈する
『遠山金四郎の時代』 「左腕に花紋を黥する」という別説を示しつつ、「ほんとうに彫り物があったのかどうかは確認しようがない」
『遠山金四郎』 「入れ墨はあったかもしれないし、なかったかもしれない、図柄はわからない」としか答えようがない
『捏造されたヒーロー、遠山金四郎』 下に引用します

最後の1冊の言い方が、いちばん正確だと思います。

景元の彫物の実物はだれも見ていない、ということだけはたしかなのである『捏造されたヒーロー、遠山金四郎』(江戸東京博物館の回答より)

生首と桜をつなぐ口伝があります

国立国会図書館の回答には、もうひとつ興味深い記述が引かれています。

初めは生首が手紙をくわえていたものを彫っていたが、後にはそれを消して全身を桜散しにしたという『原色日本刺青大鑑』(1973年)

生首を消して、桜に彫り替えたという口伝です。

これが本当なら両方の説が成り立ちます。ただし出典自身が「という」と伝聞の形で書いており、確証する文献がないという前提はここでも変わりません。

白洲で肌を脱ぐことは、制度上ありえません

図柄の話から、場面の話へ移ります。

町奉行は「都知事と警視総監と地裁判事の兼務」

日本語版Wikipediaの説明が分かりやすいので、そのまま引きます。

そもそも三権分立が確立していない時代、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅している。言わば東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であり、現在でいうところの裁判官役を行うのは、町奉行の役割の一部でしかない。日本語版Wikipedia『遠山景元』

江戸の町方は人口約50万人。その行政・警察・消防・経済統制の最高責任者が、遊び人のふりをして町を歩く時間はありません。

潜入や聞き込みは、奉行所配下の隠密廻り同心や、彼らが使った目明し(岡っ引き)の仕事でした。

裁きは、奉行ひとりで決めるものではない

お白洲の場面も、実際とはかなり違います。

- 事件の初動捜査、被疑者の取り調べ、調書の作成は吟味方与力と同心が担当する
- 奉行はその記録を点検し、『公事方御定書』と過去の判例に照合して量刑を判断する
- 死刑や遠島に相当する重大事件、先例のない事案は評定所の合議に諮り、老中への伺書を出して裁可を得る

奉行が単独で即日判決を下す仕組みではありませんでした。そして白洲は幕府の司法権を体現する場で、奉行は裃姿で臨席するものです。そこで衣服をはだけるのは、職務規定に反します。

それでも「裁判が上手い」という評判はありました

では名奉行というイメージは、まったくの作り話なのか。

日本語版Wikipediaは「ドラマのような名裁きをした記録はほとんどない」としつつ、こう続けます。

当時から裁判上手だという評判はあり、将軍から直接ほめられた記録があります。

天保12年8月18日の「公事上聴」(歴代の徳川将軍が一代に一度は行った、三奉行の実際の裁判上覧)において、景元は将軍徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられた。日本語版Wikipedia『遠山景元』

これが効いてきます。出典は続けて、景元が水野忠邦や鳥居耀蔵と対立しながらも、南町奉行の矢部定謙のように罷免されずに済んだのはこの将軍からのお墨付きのおかげだと考えられると書いています。

補足しておくと、景元は文政8年から江戸城西丸の小納戸に勤め、当時世子だった家慶の世話をしていました。古い関係です。

放蕩は史実です。ただし典拠は死の82年後の辞書です

遊び人だった過去についても確認します。

青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るが、後に帰宅する日本語版Wikipedia『遠山景元』

「複雑な家庭環境」の中身はこうです。父の景晋は永井家から養子に入りましたが、その後で養父に実子の景善が生まれ、景晋は景善を養子にしていました。そこへ景元が生まれます。

出生届が出されたのは、誕生の翌年9月でした。景善の養子手続きが終わるまで待ったためです。

時代考証家の稲垣史生は、放蕩の典拠として『日本人名大辞典』(昭和12年、平凡社)の記述を挙げています。

人となり慧敏なれど少時頗る放蕩にして常に酒を飲み、娼家に寓し、市井無頼の徒と伍した『日本人名大辞典』昭和12年(日本語版Wikipedia『遠山景元』より)

ただしこの辞書は1937年刊。景元の死から82年後です。

稲垣は、奉行時代の景元がしきりに袖を気にして、めくれあがるとすぐ下ろす癖があったとし、肘まであった彫り物を隠していたのではないかと推測しています。ただし出典はこの一連の話をこう締めています。

ただ、これらは全て伝聞によっており、今となっては事実の判別はし難い。日本語版Wikipedia『遠山景元』

隠していたという説すら、伝聞です。ドラマは、隠していたはずのものを自分から見せる筋書きになっています。

物語を作ったのは、恩を受けた芝居の関係者でした

では、この物語はどこから生まれたのか。ここも記録があります。

天保12年11月、水野忠邦が鳥居耀蔵の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとしました。景元はこれに反対し、浅草猿若町への移転だけに留めさせます。

そのあとに起きたことを、出典はこう書いています。

この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で、『遠山の金さん』ものを上演した。日本語版Wikipedia『遠山景元』

つまり助けられた芝居の側が、恩返しに景元を主人公にしたのが始まりです。

構図の由来も説明されています。

鳥居や水野との対立が「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を作り上げていった(ただし、鳥居はそれ以前から江戸っ子からの評判は悪かった)日本語版Wikipedia『遠山景元』

その後、景元の死後に講談と歌舞伎で物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説「遠山の金さんシリーズ」で広く普及しました。

実在の人物が名奉行だったから物語になったというより、物語を作る動機を持った人たちがいた、という順序です。

水野忠邦・鳥居耀蔵と何を争ったのか

対立そのものは史実です。ただし全面対決ではありません。

賛成した部分もあります

景元は天保12年12月に町人を奉行所に呼び出して奢侈の禁止を命じ、風俗取締りの町触を出し、寄席の削減も一応実行しています。改革の方針の一部には賛成していました。

反対したのは、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令のほうです。

伺書に書いたこと

天保12年9月の伺書の中身が、この人の立ち位置をよく表しています。

町人には奢侈を禁じておきながら、武士には適用していない。景元はそこを突き、細かな禁止ではなく分相応の振る舞いをしていればよいとして、緩和を求めました。

水野はこの伺書を将軍家慶に提出しましたが、意見は採用されませんでした。

守ったもの

件 景元の対応
寄席 水野は全面撤廃を主張。芸人の失業と日雇い人の娯楽が消えることを理由に反対
芝居小屋 廃止に反対し、浅草猿若町への移転に留めた
株仲間 解散令を町中に流さず、将軍へのお目見え禁止処分を受けた
床見世(露店) 取り払いを企てた水野を牽制。南町奉行時代には存続を実現させた
人返しの法 反対して実質的に内容を緩和させた

なお、南町奉行だった矢部定謙は鳥居の策謀で罷免・改易となり、伊勢桑名藩で死亡しました。鳥居が後任の南町奉行になり、景元は1人で水野・鳥居と対立することになります。

「庶民の味方」の記録には、影もあります

一方で、同じ出典に別の記録も載っています。

南町奉行在任中の嘉永3年(1850年)10月30日、青山百人町に隠棲していた高野長英を、配下の同心や捕方らが殴打の末に捕縛しました。長英はその日のうちに絶命しています。

ここは評価を加えず、記録として書いておきます。

刺青より確かに残っている文書があります

最後に、対比として面白い史料を挙げます。

景元は長年痔を患っていました。馬での登城が困難になりましたが、当時の身分では駕籠での登城は許されていません。

そこで文政9年9月、痔疾を理由に5か月間の駕籠登城許可を申請した起請文が残っています。江戸東京博物館の所蔵です。

刺青の図柄は誰も見ていないのに、痔で駕籠に乗せてほしいと願い出た文書は現存している。残るものと残らないものの差が、そのまま出ています。

映像化の系譜

物語がどう広まったかも押さえておきます。

最初期は片岡千恵蔵主演の東映時代劇シリーズです。1950年の『いれずみ判官 桜花乱舞の巻』(東横映画)に始まり、1962年の『さくら判官』まで18本が作られました。1965年には鶴田浩二主演でリメイクされています。

テレビでは中村梅之助、杉良太郎、橋幸夫、高橋英樹、松方弘樹、松平健、市川段四郎らが演じました。

日本語版Wikipediaは、この物語の型を『水戸黄門』『暴れん坊将軍』と同じ「気のいい町人が最後に権力者の正体を明かす」構造だと整理しています。

余談ですが、出典は時代が100年ほど違う大岡忠相と人気を二分することもあると書いています。

よくある質問

遠山の金さんは実在したのですか?

実在します。遠山景元という旗本で、天保11年から北町奉行、弘化2年から南町奉行を務めました。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例で、出典は松野助義に続く2例目だと注記しています。

桜吹雪の刺青は本当にあったのですか?

確認できません。日本語版Wikipediaは「彫り物をしていたことを確証する文献はない」と書き、国立国会図書館は同じ問いに「未解決」と回答し、江戸東京博物館も「確証のある文献は当館蔵書には見つけられませんでした」と答えています。

図柄は桜ではなかったのですか?

最も具体的な証言は桜ではありません。旧幕臣の中根香亭が明治26年8月の『史海』に書いた「帰雲子伝」には、二の腕から肩にかけて、髪を振り乱して口に手紙をくわえた女の生首が彫られていたとあります。ただしこれも根拠となる原資料は見つかっていません。

白洲で肌を脱いで裁いたのですか?

制度上ありえません。町奉行は江戸の行政・警察・消防・経済統制まで担う立場で、裁きも吟味方与力の調書と『公事方御定書』に基づき、重大事件は評定所の合議と老中の裁可を要しました。奉行が単独で即日判決を下す仕組みではありません。

なぜ「遠山の金さん」の物語が生まれたのですか?

芝居小屋の廃止を阻止したためです。景元が浅草猿若町への移転に留めさせたことに感謝した関係者が、景元を賞賛する意味で『遠山の金さん』ものを上演したと記録されています。その後、講談と歌舞伎で型が完成しました。

まとめ

遠山景元は実在しました。南北両方の町奉行を務め、天保の改革では武士に適用しない奢侈禁止令を突き、寄席と芝居小屋を守った人です。

その芝居の関係者が恩返しに作った物語が、180年かけて桜吹雪になりました。

刺青については、国立国会図書館が探しても出てこず、江戸東京博物館の蔵書にも確証がありません。最も具体的な証言は桜ではなく女の生首で、それすら根拠となる原資料が見つかっていません。

結局のところ、研究書の一文がいちばん正確です。彫物の実物は、だれも見ていない。

同じ時代の実在の組織を扱った検証としては、新選組の「誠」の意味を出典にあたって整理した記事もあります。

本記事の事実関係は、日本語版Wikipediaの『遠山景元』『遠山の金さん』『遠山景晋』、国立国会図書館レファレンス協同データベースの事例(中根香亭「帰雲子伝」『史海』26巻86〜87頁ほか)、および江戸東京博物館図書室のレファレンス回答にあたって確認しました。
作中の設定と史実は区別して記載し、作中の描写を史実として示さないようにしています。実在の人物については、出典が記す事実の範囲を超えた評価を加えていません。

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