アマデウスは史実か|毒殺の噂を言い出したのはモーツァルト本人

※この記事にはプロモーションが含まれています。

映画『アマデウス』でサリエリがモーツァルトを追い詰める筋書きは、史実ではありません

ただし、そう言っているのは後世の研究者だけではありません。脚本家と監督が、最初からそう言っていました。

そして毒殺の噂そのものは実在します。言い出したのは、モーツァルト本人でした。

出典にあたって整理します。

作品の骨格

先に枠組みだけ確認します。あらすじの詳細には立ち入りません。

原作 ピーター・シェーファーの戯曲『アマデウス』(1979年、ロンドンのロイヤル・ナショナル・シアター初演)
映画 1984年公開。監督ミロシュ・フォアマン、脚本ピーター・シェーファー
受賞 第57回アカデミー賞で11部門にノミネートされ、作品賞・監督賞・主演男優賞・脚色賞など8部門を受賞
語り手 老いたアントニオ・サリエリの回想

日本語版Wikipediaは、この映画のあらすじをこう書き出しています。

物語は、信頼できない語り手であるアントニオ・サリエリの回想を通じて語られる。日本語版Wikipedia『アマデウス (映画)』

「信頼できない語り手」という枠が、最初から作品に組み込まれています。

これは重要な前提です。この映画は史実を史実として提示したのではなく、信用ならない男の告白という形式を選んでいます。

脚本家と監督は「ドキュメンタリーではない」と言っていました

まず、制作した本人たちが何と言っていたか。ここが日本語の記事でほとんど触れられていない部分です。

英語版Wikipediaの「Historicity」節は、こう書いています。

最初から、脚本家のピーター・シェーファーと監督のミロシュ・フォアマンは、現実にゆるやかに基づくだけの娯楽的なドラマを作りたいという意図を隠していなかった。英語版Wikipedia「Amadeus (film)」より、筆者訳

シェーファーは自作を「実在の主題による幻想曲」(fantasia on a real-life theme)と呼んでいます。

フォアマンはさらに直接的です。戯曲も映画も「ドキュメンタリーとして意図されたことは一度もない」と認め、この映画を「モーツァルトとサリエリという主題による幻想曲」(fantasia on the theme of Mozart and Salieri)と呼びました。

出典はBBC Cultureの記事「What Amadeus gets wrong」(2015年2月24日、クレメンシー・バートン=ヒル)です。

戯曲版のWikipedia記事も、冒頭からこう定義しています。

作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとアントニオ・サリエリの人生の史実を大きく脚色した作品である。日本語版Wikipedia『アマデウス』(戯曲)

「史実と違う」と指摘されて後から認めたのではなく、はじめから幻想曲だと名乗っていた作品です。

ついでに書いておくと、シェーファーはこの戯曲を初演後も何度も書き直しています。プロットを含めて、第六版まで改訂が存在します。

毒殺の噂は、モーツァルト本人から始まっています

ここが本題です。

筆者は調査に入る前、この噂の起点はプーシキンの戯曲(1830年)だろうと考えていました。これは誤りでした。噂のほうが先で、プーシキンは噂を作品にした側です。

1791年、本人が「毒を盛られた」と訴えています

死の年の7月、モーツァルト自身が「毒殺されかけている」と考え、妻に伝えていました。

毒の名前まで出ています。アクア・トファーナ。ナポリ水とも呼ばれた、亜砒酸を主成分とする水溶液です。当時は美顔・美白の薬として売られていましたが、毒としても知られていました。

妻の手紙には、こう書かれていたと伝えられます。

私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい日本語版Wikipedia『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト』

この時点でサリエリの名前は出ていません。出ているのは「私を嫉妬する敵」だけです。

遺体のむくみが「証拠」とされた時代でした

そして12月5日にモーツァルトは亡くなります。

当時は、遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられていました。

そしてモーツァルトの遺体はひどくむくんでいました。日本語版Wikipediaは、それによってサリエリに関する噂が一気に広まったと書いています。

死後、ウィーンの新聞も「毒殺されたのではないか」と報じています。

つまり順序はこうです。本人の訴えがあり、遺体の状態がそれを裏づけるように見え、新聞が書いた。サリエリの名前は、その後から入ってきます。

1820年代のウィーンで、噂は音楽界の政治になりました

噂が特定の人物に結びついたのは、モーツァルトの死から約30年後です。

1820年ごろ、ウィーンでロッシーニを担ぐイタリア派と、ウェーバーを担ぐドイツ派の対立が起きていました。

サリエリはイタリア人で、1788年から宮廷楽長の地位を占め続けていました。日本語版Wikipediaの『アントニオ・サリエリ』は、この対立の中で「宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人のサリエリが標的にされた」と説明しています。

具体的な話も残っています。カール・マリア・フォン・ウェーバーはモーツァルトの姻戚にあたり、サリエリが会員である社交クラブへの入会を、サリエリがいる限り断ったとされます。

プーシキンが戯曲にしたのは1830年です

ここでようやくプーシキンが出てきます。

日本語版Wikipediaの『モーツァルト』は、注釈でこう書いています。

この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品が作られた。日本語版Wikipedia『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト』

噂が先、作品が後です。順番を逆にすると、この話は全部おかしくなります。

以降の流れを並べると、こうなります。

できごと
1791年7月 モーツァルトが妻に「毒殺されかけている」と訴える
1791年12月 死去。遺体のむくみから噂が広まる
1820年ごろ イタリア派とドイツ派の対立の中で、サリエリが標的になる
1830年 プーシキンが戯曲『モーツァルトとサリエリ』を書く。劇中でサリエリはモーツァルトを舞台上で殺す
1897年 リムスキー=コルサコフがオペラ化
1914年 ヴィクトル・トゥールジャンスキーが無声映画化
1979年 シェーファーの戯曲『アマデウス』初演
1984年 映画『アマデウス』公開

190年以上かけて、繰り返し語り直されてきた話です。

サリエリの「告白」は、正気のときに撤回されています

映画の枠組みそのものになっている「告白」について。

告白したとされる年は、自殺を図った年と同じです

サリエリが「自分がモーツァルトを毒殺した」と口にしたとされるのは1823年同じ年の11月に、彼は自殺を図っています。

英国の新聞ガーディアンの記事「The feud that never was」(2003年12月19日、エリカ・ジール)は、この件をこう書いています。

1823年、入院中で、末期の病にあり、錯乱していたサリエリは、モーツァルトを毒殺したと自らを責めたとされる。より正気の折には、彼はそれを撤回した。しかし損害はすでに生じていた。The Guardian「The feud that never was」より、筆者訳

錯乱時に自分を責め、正気のときには撤回していた。これが「告白」の実態です。

現在では、この告白は純粋な噂か、認知症を患う人物のたわごととして退けられています。実際、サリエリは亡くなる1年半ほど前から認知症に苦しんでいました。

ロッシーニは、本人に直接尋ねています

面白い記録が残っています。

1822年、ロッシーニはサリエリ本人に面と向かって「モーツァルトを本当に毒殺したのか」と尋ねました。このときサリエリは毅然と否定しています。

また、弟子のイグナーツ・モシェレスに対しても無実を訴えています。ただしこれは裏目に出ました。わざわざ訴えたことがかえって疑念を呼び、モシェレスの日記には「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまいます。

さらに1824年には、ベートーヴェンの演奏会で匿名の中傷者がこの主張を書いたビラを配っています。

入院の理由は、毒殺の噂ではありません

映画は、サリエリが精神病院で余生を送る設定です。日本語版Wikipediaはこれを「当時のスキャンダラスな風聞を元にしており事実とは大きく異なる」と明記しています。

実際の入院理由は、痛風と、視力低下が原因で起きた怪我の治療でした。

レクイエムを頼んだ謎の男は、実在します

映画で最も印象的な設定が、匿名の依頼者です。ここは史実の側が面白い。

依頼そのものは本当にありました

1791年8月末、プラハへ出発する直前のモーツァルトを、見知らぬ男性が訪ねています。男性は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰りました。

ここまでは映画と同じです。

依頼者の正体が判明したのは1964年です

依頼者が誰だったのかが分かったのは、1964年のことでした。

フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵という田舎の領主です。使者は伯爵の知人フランツ・アントン・ライトゲープでした。

伯爵は1791年2月に若くして亡くなった妻の追悼のために、モーツァルトへ作曲させています。

映画がサリエリに与えた動機は、依頼者本人の癖でした

ここが今回いちばん驚いた点です。

映画のサリエリは、レクイエムを自分の作品として発表し、モーツァルトの葬送曲として初演することを企みます。

その行動は、実在の依頼者がふだんからやっていたことそのものです。

ヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家であり、当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを自分で写譜した上で自らの名義で発表するという行為を行っていた。日本語版Wikipedia『レクイエム (モーツァルト)』

他人に書かせた曲を自分の名前で出す人物は、実在しました。ただしそれはサリエリではありません。

なお、「死の世界からの使者が依頼に来た」という伝説は、コンスタンツェの再婚相手ニッセンによるモーツァルト伝などで広まったものです。その根拠とされたダ・ポンテ宛の手紙には、現在偽作説が有力とされています。イギリスに滞在していたダ・ポンテが、見知らぬ男性のことを知り得ないためです。

口述筆記の相手は、サリエリではありません

映画の終盤、死の床のモーツァルトがサリエリにレクイエムを口述する場面があります。

史実で口述を受けていたのは、フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーという別の人物です。

コンスタンツェの妹ゾフィーが、姉と義兄夫妻に宛てた手紙にこう残しています。

モーツァルトが最後までベッドでジュースマイヤーにレクイエムについての作曲指示をし、臨終はまだ口でレクイエムのティンパニの音をあらわそうとするかのようだった日本語版Wikipedia『レクイエム (モーツァルト)』が要約するゾフィーの手紙

補筆の担当も一人ではありません。まずヨーゼフ・アイブラーが取りかかり、8曲目の途中で放棄。次にヤコプ・フライシュテットラー。最終的にジュースマイヤーが一から補筆し直して完成させました。

日本語版Wikipediaは映画の考証について、「レクイエムで、モーツァルトの死後つけられたはずの音符をベッド際で作曲しているシーンがある」とも指摘しています。

補筆した男は、サリエリの弟子でした

そのジュースマイヤーは、1787年以降ウィーンでサリエリに師事しています。

彼は長らくモーツァルトの弟子だと考えられてきました。しかしこれは、コンスタンツェがレクイエムの完成者として彼が適任であることを正当化するために作った話だとされています。

ジュースマイヤー自身は、多くの音楽家が補筆の依頼を断った末に自分のところへ来た、と回想しています。

そしてサリエリが、そのレクイエムを初演しています

1793年1月2日、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の依頼により、サリエリがモーツァルトの『レクイエム』を初演しました。

映画でサリエリが企んだのは、レクイエムを自分のものとして初演することでした。史実のサリエリは、それをモーツァルトの作品として初演しています。

ついでに書くと、サリエリは1791年のモーツァルトの葬儀に参列しています。

モーツァルトの息子も、サリエリの弟子です

日本語版Wikipediaの『アントニオ・サリエリ』には「著名な作曲家への指導」という節があります。そこに並ぶ名前がこれです。

弟子
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
フランツ・シューベルト
フランツ・リスト
カール・チェルニー
ヨハン・ネポムク・フンメル
ジャコモ・マイアベーア
フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー モーツァルトの『レクイエム』を完成させた人物
フランツ・クサーヴァー・モーツァルト モーツァルトの息子

映画で毒殺したことになっている相手の息子を、サリエリは教えていました。

このフランツ・クサーヴァーは1791年7月26日生まれ。父の死の4か月前に生まれた末子です。父から直接の音楽教育を受けた事実はなく、サリエリとフンメルに師事しました。

母コンスタンツェの意向で、彼は「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世」として活動しています。

名前の由来も込み入っています。フランツ・クサーヴァーという名は、ジュースマイヤーから貰い受けたものでした。そこから、実はジュースマイヤーとコンスタンツェの子ではないかという憶測が後に生まれています。

英語版Wikipediaの戯曲の記事も、二人が敵対していなかった証拠として、この師弟関係と、サリエリがモーツァルトの生前も死後もその作品を何度も指揮していることを挙げています。

二人の合作は、映画のあとに見つかりました

ここも競合の記事で見かけない話です。

モーツァルトとサリエリには、共作した作品があります。

カンタータ『オフェーリアの健康回復に寄せて』。1785年の作品です。

きっかけは事故のようなものでした。サリエリのオペラ『トロフォーニオの洞窟』の初演が、オフェーリア役のアンナ・ストラーチェ(ナンシー・ストレース)が病気で一時的に声を失ったために延期されます。その回復を祝って書かれた合作の頌歌が、この曲です。

そして重要なのが、この楽譜がたどった経緯です。

この作品は映画の公開から何年も経ってから再発見されました。

2016年、プラハで演奏されています。BBCニュースが2016年2月16日に「Mozart and Salieri 'lost' composition played in Prague」として報じました。

つまり1984年に映画が撮られた時点では、二人の合作の存在自体が失われていました。映画のあとで、史実の側が更新されたことになります。

なお、モーツァルト研究者のウルリヒ・ライジンガーは、曲そのものの出来については優れたものではないと認めています。

別件ですが、サリエリの『はじめに音楽、次に言葉』(1786年)は、モーツァルトの『劇場支配人』と競作として同じ宮廷で初演されました。さらに遡ると、17歳のモーツァルトはサリエリのオペラのアリアによる変奏曲を書いています。ウィーンでの就職を狙ったものと考えられています。

妨害されたという主張は、モーツァルト側から出ています

では、サリエリはモーツァルトの出世を妨害したのか。

ここは慎重に扱う必要があります。「妨害された」という主張は複数残っていますが、いずれもモーツァルト側の証言です。

証言者 内容
モーツァルト本人 ウィーンで高い地位に付けないのはサリエリが邪魔をするためだ、と主張していたという
父レオポルト 「サリエリとその支持者全員」が『フィガロの結婚』を潰すために天地を動かすだろう、と書いた
妻コンスタンツェ 夫がサリエリの意図を疑うことがあったと語っている
イグナーツ・モシェレス 友人サリエリの「陰謀」がモーツァルトのキャリアを妨げたと同意している

否定する側の指摘も具体的です

音楽批評家のアレックス・ロスは、サリエリの策謀の証拠は乏しいとしたうえで、モーツァルトには自分に対する陰謀を見る傾向があったと警告しています。

出典はニューヨーカー誌の記事「Antonio Salieri's Revenge」(2019年5月27日)です。

一方で、サリエリに厳しい指摘もあります。ハロルド・C・ショーンバーグは、サリエリには落ちぶれた作曲家に寛大だという評判があったのに、モーツァルトを助けたことは一度もなかったと書いています。

サリエリの死後まもなく刊行されたイグナーツ・フォン・モーゼルの伝記は、失われた自伝の草稿に基づくとされ、サリエリはモーツァルトを尊敬していたが嫉妬していたと記しています。サリエリが実際にモーツァルトの放蕩な生活を批判していたことも記録されています。

ショーンバーグはこう締めています。二人の関係の正確な性質は、決して分からないだろう、と。

地位そのものを並べておくと、差は明らかです。

サリエリ モーツァルト
宮廷での役職 1774年に宮廷作曲家、1788年から36年間宮廷楽長 1787年12月にグルックの後任として宮廷音楽家
年俸 800フロリン(前任グルックは2000フロリン)

年俸の差はよく批判の材料にされますが、現在では自由な活動を認める奨励金という性格と、当時31歳という年齢が要因と考えられるようになっています。

サリエリは、独身の孤独者ではありません

映画のサリエリは、神への誓いとして貞潔を守る孤独な男として描かれます。

実際のサリエリは、8人の子を持つ既婚の家庭人で、少なくとも1人の愛人がいました。

人物像も映画とはかなり違います。日本語版Wikipediaはこう書いています。

実際の彼は経済的に成功した為か慈善活動にも熱心で、弟子からは一切謝礼を取らず、才能のある弟子や生活に困る弟子には支援を惜しまなかった。職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。日本語版Wikipedia『アントニオ・サリエリ』

音楽以外の仕事もしています。1817年にウィーン楽友協会音楽院の指導者に就任し、楽友協会の黄金ホールの設計、特に空間性と音響効果の設計にも携わりました。

モーツァルトの「下品さ」は、19世紀に消されていました

映画のモーツァルトは下品でよく笑います。ここには史料の裏づけがあります。

1777年の「ベーズレ書簡」と呼ばれる一群の手紙です。

宛先は従妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルト。排泄にまつわる駄洒落にあふれた内容で、現在6通が保管されています。妻コンスタンツェ宛にも、同種の手紙が数多く残っています。

興味深いのは、その後の扱いです。

19世紀の伝記作者は、スカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。日本語版Wikipedia『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト』

ベーズレ書簡は、モーツァルトの死後、息子たちによって破棄を望まれています。

つまりこの映画は、史実を歪めたというより、19世紀に消された側面を復活させた側面があります。

ただし補足も要ります。同じ記事は、ドイツ語の該当表現について英語の慣用句と同類であり、下品ではあるが必ずしもスカトロジー表現とはいえないと注意しています。手紙が下品なことと、日常が映画のようだったこととは別の話です。

死因は、いまも一つに決まっていません

当時の公式記録に残る診断名は「急性粟粒疹熱」です。ウィーン市の記録です。

現在の説は分かれています。

出典
リウマチ性炎症熱 日本語版Wikipedia『モーツァルト』が「実際の死因」として記載
腎不全 ハロルド・C・ショーンバーグが1981年に、記録を研究した医師たちの見解がほぼ一致していると記述
慢性腎臓病に伝染病が重なった ピーター・J・デイヴィーズ説

出典によって答えが違うので、ここは一つに決めずに書いておきます。症状としては全身の浮腫と高熱だったとされ、死の直前に医者が行った瀉血が症状を悪化させたとも言われます。

毒殺については、Norton/Grove の音楽事典が端的に、毒殺ではないと書いています。

埋葬は、雨ではありませんでした

映画のラストで、モーツァルトの遺体は土砂降りの雨の中を運ばれ、貧民墓地に投げ込まれます。

雨は降っていません

葬儀の日が嵐だったという報告はあります。ただし実際には降水はなく、強風が吹き始めたのは深夜になってからでした。

葬儀の日取りには12月6日説と7日説があり、この天候の話はその判別に使われている記録です。

共同墓穴だったのは事実です。理由は割れています

遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬されました。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は今も不明です。

なぜそうなったのか。ここも出典が両論を書いています。

見方 根拠
当時の制度による 葬儀の簡素化はヨーゼフ2世の合理主義的政策の1つで、家族や知人が葬列に同行しないことは当時の慣習だった
軽視の表れ この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えられる

同じ記事の中に両方が書かれています。どちらか一方に寄せるのは、出典に対して正確ではありません。

なお、1891年に「モーツァルトの墓とされるもの」を中央墓地へ移した際、位置がまた分からなくなりました。現在サンクト・マルクス墓地にあるものは、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて作ったものです。

『アマデウス』は、本人が使っていた綴りではありません

タイトルそのものの話です。

洗礼簿に記載された全名はラテン語で、ヨアンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト。

「アマデウス」は、この「テオフィルス」をラテン語に意訳した通称です。

テオフィルスはギリシア語で「神に愛された」を意味します。アマデウスも同じ意味です。

そして本人がどう書いていたか。日本語版Wikipediaはこう記しています。

ただしモーツァルトは Amadeus ではなくイタリア語風のアマデーオ(Amadeo)をおもに使っていたともいわれ、ほかフランス語風のアマデ(Amadé)、ドイツ語風のゴットリープ(Gottlieb)も用いたことがある。日本語版Wikipedia『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト』

映画のタイトルは、本人が日常的に使っていた綴りではありません。

考証が正しい側の話もあります

批判ばかり並べると片手落ちなので、逆の例も書いておきます。

指揮棒を使わないのは、正しい考証です

劇中で指揮をする場面は、すべて素手です。当時はまだ現在のような指揮棒が無かったという史実を反映しています。

モーツァルト役のトム・ハルスは、音楽を担当したネヴィル・マリナーから指揮法の訓練を受けています。マリナーは、彼が音楽映画の中で最もちゃんとした指揮をしていると思う、と述べています。ピアノも多くの場面で代役や吹き替えなしで弾いています。

撮影がプラハだったのにも理由があります

屋外ロケはほとんどがチェコのプラハで行われました。中世以来の古い町並みが現存しているためです。監督のフォアマンはチェコスロヴァキア出身で、チェコ・ヌーヴェルヴァーグの一員として活動したのちアメリカへ拠点を移した人です。

そしてもう一つ。

オペラの上演シーンを撮ったプラハのスタヴォフスケー劇場は、実際にモーツァルト自身の指揮で『ドン・ジョヴァンニ』の初演が行われた劇場です。

当時はノスティッツ劇場と呼ばれていました。エステート劇場、ティル劇場とも呼ばれます。

余談として、完全版DVDの音声解説によれば、舞踏会が行われている建物はフランス大使館、サリエリが運び込まれた精神病院は当時機密文書の保管庫として使われていた建物です。

音楽監修は、抗議文を受け取りました

一方で、うまくいかなかった話も残っています。

音楽監修を引き受けたネヴィル・マリナーは、モーツァルトの原曲を変更しないことを条件にしていました。

結果として、条件は守られませんでした。

『グラン・パルティータ』は抜粋で演奏され、ドイツ語のオペラは脚本のシェーファー自身の英訳詞で歌われ、仮面舞踏会の場面ではモーツァルト作の軍歌が歌詞なしで演奏されています。

そして人物像の描き方の問題が加わります。

古来のモーツァルトの人間像を一変させるような性格付けがされているので、モーツァルト愛好家の多くがマリナーに抗議文を送り付けるという事態になった。日本語版Wikipedia『アマデウス (映画)』

抗議は監督ではなく、音楽監修者のところへ行きました。

ほかにも考証上の指摘は挙げられています。皇帝への謁見でサリエリが差し出す「歓迎の行進曲」の挿話は完全な創作で、行進曲そのものが存在せず、それをコントルダンスへ変奏したという話も全くのフィクションです。作風がサリエリとまったく異なることも指摘されています。

日本では1982年から舞台が続いています

最後に、日本での受容について。

日本語版の舞台初演は1982年。サリエリ役が九代目松本幸四郎、モーツァルト役が江守徹でした。

九代目松本幸四郎は、現在の二代目松本白鸚です。この配役は好評を博し、1983年、1985年、1986年と再演されました。

1993年からはモーツァルト役に七代目市川染五郎を迎え、1995年、1998年、2004年と続きます。2011年は武田真治、2017年は桐山照史。

2017年の公演中に、上演回数は450回を迎えました。

映画の日本公開は1985年2月で、配給収入は8億200万円です。戯曲の邦訳は、伊丹十三らの訳で早川書房のハヤカワ演劇文庫に入っています。

よくある質問

アマデウスは史実ですか?

作品の骨格は史実ではありません。脚本家のシェーファーは自作を「幻想曲」と呼び、監督のフォアマンはドキュメンタリーとして意図されたことは一度もないと認めています。一方で、毒殺の噂が実在したこと、匿名のレクイエム依頼があったこと、二人が同じ時期のウィーンで競合していたことは事実です。

サリエリはモーツァルトを毒殺したのですか?

していません。1823年に告白したとされますが、それは自殺を図った年と同じで、錯乱時のこととされ、正気の折には撤回しています。1822年にはロッシーニに直接尋ねられて否定し、弟子のモシェレスにも無実を訴えています。

毒殺の噂は誰が言い出したのですか?

最初の訴えはモーツァルト本人です。1791年7月、毒を盛られていると考えて妻に伝えています。ただしこの時点でサリエリの名前は出ていません。サリエリと結びついたのは、1820年ごろのウィーンでイタリア派とドイツ派が対立していた時期です。

レクイエムを依頼した謎の男は誰ですか?

フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵です。正体が判明したのは1964年でした。妻の追悼のために依頼したもので、この伯爵は有名作曲家に匿名で書かせて自分の名義で発表する習慣がありました。

サリエリとモーツァルトは仲が悪かったのですか?

出典は割れています。モーツァルト側には妨害されたという証言が複数ありますが、アレックス・ロスは策謀の証拠は乏しいとし、モーツァルトには陰謀を見る傾向があったと指摘しています。サリエリはモーツァルトの息子を教え、その作品を何度も指揮し、レクイエムを初演しました。

まとめ

『アマデウス』の筋書きは史実ではありません。ただしそれは、この映画の欠点として指摘するようなことではないのかもしれません。

制作した本人たちが、最初から「幻想曲」と名乗っていました。

そして毒殺の噂そのものは、190年以上にわたって語り継がれてきた実在の噂です。起点はモーツァルト本人の訴えで、そこに遺体のむくみと、音楽界の派閥対立が重なりました。

この映画が語り直したのは、史実ではなく、噂の歴史のほうです。

実在の人物を扱った映画をどこまで信じてよいかという問題としては、『タイタニック』が実話かを出典にあたって整理した記事もあります。

本記事の事実関係は、日本語版Wikipediaの『アマデウス (映画)』『アマデウス』『アントニオ・サリエリ』『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト』『レクイエム (モーツァルト)』『フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー』『フランツ・クサーヴァー・モーツァルト』『ピーター・シェーファー』『ミロス・フォアマン』、および英語版Wikipediaの「Amadeus (film)」「Antonio Salieri」にあたって確認しました。
作中の設定と史実は区別して記載し、作中の描写を史実として示さないようにしています。実在の人物については、出典が記す事実の範囲を超えた評価を加えていません。

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