千と千尋の神隠しのモデル|特定の温泉宿は存在しない

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「千と千尋の神隠し」のモデルを調べると、候補が次々と出てきます。群馬の積善館、長野の金具屋、道後温泉本館、台湾の九份。聖地17選、モデル地12選。

なぜ、こんなに増えるのでしょうか。

先に答えを書きます。誰かが嘘をついているからではありません。旅館の側はむしろ慎重で、断定を避けています。

増える理由は、湯屋が「特定の建物」ではなく「様式」で描かれているからです。

出典にあたって整理します。

ジブリ自身の本に、答えが書いてあります

スタジオジブリ自身が著者になっている本を出典として、一行で書かれています。

油屋のデザインについて、モデルとなった特定の温泉宿などは存在しないWikipedia『千と千尋の神隠し』(出典=スタジオジブリ『ジブリの教科書12 千と千尋の神隠し』文春ジブリ文庫、2016年、p.122)

「特定の温泉宿などは存在しない」。作り手の側が、そう説明しています。

企画の段階から舞台とされていたのは、温泉地ではありませんでした。

この映画は「散歩コースを舞台にする」ところから始まっています

『千と千尋の神隠し』の前に、宮崎駿は『煙突描きのリン』という別の企画を1年ほど進めていました。それが1999年8月に突然なくなります。壁一面に貼ったイメージボードを、宮崎が自分で剥がして捨てた——プロデューサーの鈴木敏夫が、その場面を証言しています。

宮さんは僕の話を聞きながら、すっと立ち上がり、壁に貼ってあったイメージボードを一枚一枚はがし始めました。そして、全部まとめて、僕の目の前でゴミ箱の中にバサッと捨てたんです。鈴木敏夫(『ジブリの教科書12 千と千尋の神隠し』p.56)

そして宮崎はその場で、友人の娘のための映画を作ろうと提案します。あわせて出したのが、舞台の提案でした。

さらに宮崎は、作品の舞台を江戸東京たてもの園にすることを提案した。江戸東京たてもの園はスタジオジブリにほど近い場所にあり、宮崎・鈴木・高畑勲らの日常的な散歩コースになっていた。Wikipedia『千と千尋の神隠し』

出発点は「身近な場所を舞台に、親しい子供のための映画を作る」でした。

企画書が書き上げられたのは1999年11月2日。遠い温泉地を探しに行く話が、そもそも入っていません。

2000年3月17日には、たてもの園でロケハンも行われています。なかでも子宝湯は宮崎お気に入りの建物で、千鳥破風の屋根に加えて玄関の上に唐破風を重ねる趣向、格天井に描かれた富士山のタイル絵といった「無駄な装飾性」に魅了されたと出典は書いています。

では、何が参考にされたのか

出典が挙げているものを並べると、風景が変わります。

作中の要素 参考にされたもの
油屋の内装 目黒雅叙園が原形。ほかに二条城の天井画、日光東照宮の壁面彫刻、広島の遊郭の赤い壁
湯屋の外観 江戸東京たてもの園の子宝湯(宮崎お気に入りの建物)
温泉宿として 道後温泉本館(ジブリの社員旅行で訪れた)
釜爺の薬草箱 江戸東京たてもの園の武居三省堂(文具屋)内部の引出し
油屋周辺の飲食店街 新橋の烏森口、有楽町ガード下の歓楽街
従業員の部屋 1950年代の近江紡糸工場の女工たちの部屋、国立ハンセン病資料館内に再現された雑居部屋
湯婆婆の部屋 鹿鳴館と目黒雅叙園
海原電鉄 都電7514系(江戸東京たてもの園内)
冒頭とラストの自然 美術監督の男鹿和雄が四方津駅周辺を独自に取材

温泉宿は、道後温泉本館ひとつだけです。

残りは百貨店のような結婚式場、城、東照宮、遊郭、紡糸工場、資料館、路面電車、文具屋の引出し。「モデルの温泉旅館めぐり」では、そもそも届かない場所ばかりです。

「モデルが多すぎる」の原因は、旅館ではありません

検索して出てくる旅館が、根拠なく名乗っているのだろう——そう思って各館の説明を読みに行きました。逆でした。

金具屋は「わかりません」と書いています

長野・渋温泉の金具屋は、自社サイトに「金具屋はモデルなのか?」という見出しを立てています。結論はこうです。

2001年7月の「千と千尋の神隠し」公開以降、『金具屋の建物が湯屋のモデルなのではないか』という噂が広まっていき、国内だけでなく海外からの問い合わせや、世界ふしぎ発見などのメディアでも映画とからめて取り上げられました。(中略)実際のところはわかりません。歴史の宿金具屋「千と千尋と金具屋たてもの論」(九代目による記述)

積善館は根拠を示しています

群馬・四万温泉の積善館は、見出しからして「モデルと言われる理由」です。

その番組の中で、四万温泉積善館が「千と千尋の神隠し」の湯屋「油屋」のイメージモデルの一つとして紹介されました。その番組中では他のイメージモデルとして、道後温泉の本館、東京の目黒雅叙園が紹介されました。四万温泉 積善館「積善館について」(2008年7月25日 日本テレビ「スタジオジブリ・レイアウト展特番〜宮崎監督130分独占インタビュー」について)

積善館が挙げた3つのうち、道後温泉本館と目黒雅叙園は先ほどの表と一致します。

つまりこの説明は裏が取れています。そのうえで「イメージモデルの一つ」と限定してある。

断定しているのは、当事者ではなく、まとめ記事のほうです。

答えは「建物」ではなく「様式」でした

金具屋の九代目は、2018年に映画の制作に参加したアニメーターから直接聞いた話を書いています。

映画を制作するにあたり、宮崎駿監督から『湯屋はこのような建築様式で描く。それはこういう建物で―』と現存する建物の写真を使って多数のアニメーターに説明する際に金具屋が含まれていた、ということでした。歴史の宿金具屋「千と千尋と金具屋たてもの論」

九代目は、それをこう結論づけています。

「モデルにしたのではなく、建築様式の参考として使用された」歴史の宿金具屋「千と千尋と金具屋たてもの論」

そして同じページに、宮崎駿の言葉が置かれています。

『あのような建物はどこにでもあったのだ』歴史の宿金具屋「千と千尋と金具屋たてもの論」に引用された宮崎駿監督の言葉

どこにでもあった。これが、候補が減らない理由です。

1軒の建物を写生したのではなく、ある様式の建物を何枚も見せて描かせている。だから、その様式で建てられた宿はどこも似ます。似ているのは偶然ではないし、かといって「あの1軒がモデル」でもない。

似た建物は、かつて全国にありました

九代目は、建築史家の藤森照信が「ジブリの立体建造物展」で湯屋の様式をどう解説したかも書き残しています。そのうえで、自館の建物についてこう述べています。

実はこれは珍しいものではなく、当時全国で盛んにつくられていたものでした。歴史の宿金具屋「千と千尋と金具屋たてもの論」

九代目は講演の場で、なぜその様式が戦後つくられなくなったのかを藤森本人に質問しています。返ってきた答えは、合理性がないから。経済成長にしたがって新しい材料が生まれ、効率よく建てることが最優先されるようになった、ということでした。

都市部の多くは戦争で焼け、焼け残ったものも時代に合わないものとして取り壊されていった

候補が「全国に散らばった数十軒」という形で残っているのは、そういう経緯の結果です。

九份だけは、はっきり否定されています

候補のなかで、ひとつだけ扱いが違うものがあります。台湾の九份です。

状況
一部商店主の主張 宮崎駿が訪れスケッチをした
宮崎駿本人 台湾メディアのインタビューで、九份を作品の参考にしたことはないと否定
現地の看板 「神隠少女 湯婆婆的湯屋」がモデルとされる茶屋のそばに掲げられている

否定されたあとも、看板は出ています。

ただし、九份が湯屋に似て見えること自体は不思議ではありません。金具屋の九代目が、台湾の九份も日本の宮大工たちが造ったものだと書いています。作品が参考にしたかどうかと、建物が似ているかどうかは、別の話です。

出典で確認できるもの、できないもの

よく挙がる候補を、出典と照らして仕分けます。

候補 出典での扱い
江戸東京たてもの園 企画当初から作品の舞台。ロケハンも実施
目黒雅叙園 油屋の内装の原形
道後温泉本館 参考にされた
積善館 日テレ特番でイメージモデルの一つとして紹介された(積善館の説明)
金具屋 建築様式の参考として写真が使われた(金具屋九代目の記述)
九份 × 本人が否定

そして全体にかかる前提が、「モデルとなった特定の温泉宿などは存在しない」です。

よくある質問

油屋のモデルになった温泉旅館はどこですか?

特定の1軒はありません。ジブリの本が「モデルとなった特定の温泉宿などは存在しない」と書いています。参考にされたものとして出典に名前があるのは、温泉宿では道後温泉本館です。ほかは目黒雅叙園、二条城、日光東照宮など、温泉宿ではないものが並びます。

台湾の九份はモデルですか?

宮崎駿本人が否定しています。台湾メディアのインタビューで、九份を作品の参考にしたことはないと述べています。現地には湯婆婆の湯屋をうたう看板が出ていますが、作品との関係は公式に否定されています。

積善館と金具屋は、モデルではないのですか?

どちらも「モデルではない」とは言えません。積善館は日本テレビの特番でイメージモデルの一つとして紹介されたと説明しており、金具屋は制作参加者から建築様式の参考に使われたと聞いたと書いています。ただし両館とも、自分たちが唯一のモデルだとは述べていません。

結局どこへ行けば、あの世界に近いですか?

出典で最も強く裏づけられているのは江戸東京たてもの園(東京都小金井市)です。企画当初から作品の舞台とされ、子宝湯、武居三省堂、都電7514系と、作中の複数の要素の参考元がこの一か所に集まっています。

この映画が残したもの

金具屋の九代目は、「たてもの論」をこう締めくくっています。

「千と千尋の神隠し」この映画が製作されたおかげで、我々古い木造建築の旅館の価値が大きく見直されることになりました。高度成長からバブル期にはただただ古くみっともないものだったのが、世界に誇れるものとなったのです。この映画がなかったら、さらに多くの木造旅館が姿を消していたと思います。歴史の宿金具屋「千と千尋と金具屋たてもの論」

「どこがモデルか」より、こちらのほうが大きい話です。

特定の1軒を指さなかったことで、その様式の建物すべてに光が当たりました。

まとめ

モデルが多いのではなく、モデルという言葉が合っていません。

湯屋は1軒の宿を写したものではなく、ある建築様式で描かれています。宮崎駿の言葉を借りれば「あのような建物はどこにでもあった」。だから似た宿が全国にあり、候補は減りません。

そして参考にされたものを並べると、温泉宿は道後温泉本館ひとつで、あとは結婚式場、城、東照宮、遊郭、紡糸工場、路面電車、文具屋の引出しでした。

油屋は、日本中から集めた断片でできています。

宮崎駿の企画がどこから立ち上がるかについては、『ふしぎの海のナディア』の出発点をたどった記事でも扱っています。

本記事の事実関係は、日本語版Wikipediaの『千と千尋の神隠し』『九份』、および歴史の宿金具屋・四万温泉積善館の各公式サイトにあたって確認しました。ジブリ側の記述は、Wikipediaが出典として挙げるスタジオジブリ『ジブリの教科書12 千と千尋の神隠し』(文春ジブリ文庫、2016年)、叶精二『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)、『ロマンアルバム 宮崎駿監督作品 千と千尋の神隠し』(徳間書店、2001年)によります。
金具屋・積善館の記述は、各館が自社サイトで公表している内容です。両館とも自らを唯一のモデルとは述べていません。

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